徒然なるままに

私の不器用な人生を見届けてください

大学へ行く意味って何だろう?

こんにちは。
最近曇った天気が心地よいと感じます。メンボーです。

この前授業終わりに久しぶりに会った友達とその場で1時間余り喋ってから帰りました。その帰途でふと思いだしたことを少し書いてみようかなって思います。

少し話は遡って。。
大学に入学してある程度経ち、大学生活に少しばかり慣れてきた頃、一体大学に行く意味なんてあるのかなと思うようになりました。それは講義がほとんど教科書をなぞっているようなものばかりで、大学という大きな環境の中にいなくても別に本屋さんで教科書を買って家で自分で勉強をすることとなんら変わりがないと思ってしまったからです。

机と向き合うような勉強、いわゆる''勉学''だけに主眼を置くのは凝り固まった考え方というのは分かっています。サークルやらバイトやら遊びやらに主眼を置く人もいて、そのどれにどのくらいの重きを置いているのかも人それぞれ違うし、それはそれでその人の正解だと思っています。僕の場合は、大切にしたいものが多くある中で特に大切にしたかったものが’’勉学’’でした。大学で一番大切にしたかったものが、大学という環境をそこまで必要としないとなると、前のように自問せざるを得ません。’’勉学’’以外にも大学に行こうと思えるだけの意味を探してみました。そこで1つ見つけたことがあります。今考えると探すまでもないだろという感じですが。。。

それは色んな人に触れるということです。義務教育課程では勿論固定化された人達としか同じ教室にしかいませんし、職に就いても大半の仕事は同じメンバーで同じオフィスで働くことになると思います。多くの人間が集まって、しかもそれらが高い流動性をもつような環境は大学に特有のものだと思います。だから、多種多様な人たちと関われる今はとても貴重な時間なんだと思います。実際自分自身そう感じることが多いです。
(これが冒頭で書いた’’ふと思いだしたこと’’です。)

同じ場所で同じ時間に同じ授業を受けている(それだけでも十分意味があるのかななんて思うときもあります。)物理学類の人たちとの授業合間の他愛もない会話だったり、授業をぬけだして散歩する時間だったり、同じ疑問に皆でぶつかる時間だったり、感動を共有できた瞬間だったり。。
サークルで言えば、バドミントンならバドミントンを一緒にする時間はもちろん、そうして汗を流した後の皆とのご飯の時間もとても幸せな時間でしたし、農業なら畑仕事をしながらの他愛もない会話やシフト終わりに夕日を見ながら一緒に帰る時間もなかなか味わうことのできない風情ある時間でした。

こうして振り返ってみると、多くの人から多くのことをもらったのだなと再認識させられます。実は最近、自分のことで精一杯になってしまって、なかなか他人との時間を取れなかったり、他人といるときでも自分勝手になってしまっているなと自分で感じることが多かったのです。多分上に書いたような大事なことを忘れていたのかもしれません。
今を全力で生き、自分を常に上書きしていくことも大事だと思う反面で、過去に死んだ自分の遺書を受け取ることも大事なのだなと思います。
(どうでもいいんですけど、遺書って英語でwillですよね。未来へ送られる手紙ということでwillなんですかね。。)

それではまた。。